まるで安浦のアンコールワットだ!! 野呂山「勧農坂開拓跡」を訪ねて
この度,野呂山頂にある「勧農坂(かなざこ)」を訪ねてみました。 場所は,野呂山の北西に位置し,旧安浦町と呉市(石内)の境界沿いにあります。 今までは険しい登山道を歩いてしかいけない,まさに「秘境の地」でしたが,平成22年に林道郷原野呂山線が開通し容易に訪れることが可能となった所なのです。 この地の歴史は古く,江戸の文政11年(1828)に開拓が始まり,天保4年(1833)には約210戸の開拓者が入植。用所役人も置かれ,一つの村を形成していたのです。ちなみに,文政2年(1819)の人口(芸藩通史より)では,「内海295戸:1,627人」,「三津口231戸:1,215人」,「安登181戸:907人」となっており,いかに多くの人が住んでいたかを物語っています。順風にいくと思った開拓も,天保7年(1836)の大飢饉と疫病で困窮し,約30戸まで激減したそうです。その当時の名残が残る数々の現代遺跡をご紹介します。
馬離場池(バリバ-池) 「馬を離す場」で名付けられてと聞いています。今は底が抜け,水は殆どないですが,はっきりと池の形が分かります。近くに石碑があり,びっしりと文字が書いてましたが解読不能でした。
石畳の道と城のような石積み 以外に道幅は広く,広大な農地が形成されていたようです。
段々畑であろう石積みと石の橋 当時の開拓の面影がはっきりと。
当時の井戸跡と,コの字型の石積み。階段や水路も無くとても不思議な形の石垣です。
深い森に突如現れた「神社」の跡と思われる遺跡を発見。構造・大きさから見て,多分「野呂神社」の跡地だと思われます。元々の野呂神社はこの勧農坂に建立されていましたが,昭和38年,十文字付近に移設されています。我ながら,これを見たとき感動ものでした。!
こちらも突如現れた墓。木々に覆われ痛々しく,供養とあわせて周りを掃除しました。文字には亡くなったお名前と明治42年建立と書いていました。
今回,歩いてみて,野呂山が江戸・明治・昭和と時代の節目に開拓が行われたことを改めて再確認しました。長い年月閉ざされてきた勧農坂。安浦の文化遺跡として語り次いでいきたいですね。
タウンレポーターT・Mでした。
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