銅像は残った・亀田多吉寿像と上田直次ー「安浦戦跡をたどる」にむけて
三津口の神山神社境内でひときわ目をひく、亀田多吉寿像。
亀田多吉氏(1879(明治12)年~1968(昭和43)年)は、三津口出身で呉海軍工廠で技術を取得後、広島市に大型研磨砥石の工場を立ち上げた実業家。事業が軌道に乗ると地元安浦(三津口)に多額の寄附を行いました。その功績を称え、三津口の神山神社境内に「亀田多吉寿像」(「寿像」は生前に造られた像)が置かれ、今でも間近にみることができます。
◯川尻出身の彫刻家 上田直次
この像は、川尻町出身の彫刻家上田直次(なおじ・本名なおつぐ)氏が制作しました。
上田直次氏(1880(明治13)年~1953(昭和28)年)は川尻の宮大工の家に生まれ、27歳で上京し木彫、塑像を学んだ後、多くの作品を生み出し文展・帝展で活躍、「山羊の彫刻家」として有名になりました。戦後は郷里川尻で過ごし、仏像などの制作を行いました。
上田氏は戦前、軍人などの多くの銅像を制作しました。しかし、太平洋戦争が激化すると、金属を軍に提供する「金属供出」が行われ、氏の銅像の多くは失われました。孫の塚田弘子氏がまとまめた「彫刻家 上田直次・薫 作品とあゆみ」国書刊行会 2016年 塚田弘子編 川尻図書館に蔵書あり)に、
「屋外に設置された銅像として現存しているのはわずか一点で、呉市神山神社境内にたつ《亀田多吉銅像》がそれである。」(小杉放菴記念日光美術館 学芸員 迫内祐司)と記述されています。この亀田多吉寿像は、上田直次作の屋外展示銅像で、現存する唯一のものなのです。
銅像が残っていることには、「残したい」という、人々の強い『思い』がありました。
昭和27年安浦町が建立(町史年表に完成祝賀会開催)した、となっていますが、像の台座には昭和17年三津口町建之とあり、更には上田氏作品制作年表には昭和4年亀田多吉像像制作とあります。戦前に造られ現地に置かれたものが、戦後にも設置された?
「安浦町史 地誌・民俗編」には、「亀田多吉翁の銅像を住民が土の中に隠し、その代品として馬の像を供出し、その難を逃れたという話もある。」と書かれています。現在神山神社の亀田像の対面に、馬の像があった跡とその由来が残っています。
一方、川尻郷土資料保存会によると、亀田多吉像は、「芸術家の仕事を奪うわけにはいかない」と銅の配給をうけて制作、陸軍から「世の中に目立たぬようにせよ。目立てば銅像の供出をさせなければならない」と言われたといいます。完成した像は時期がくるまで倉庫の中で保管したと、「上田直次の世界」に書かれています。戦時中の厳しい状況を乗り越え、隣町の芸術家作品を今見ることができることの喜びをかみしめたいものです。
◯亀田氏の工場は原爆で破壊
亀田多吉寿像には、もうひとつ、戦後80年被爆80年を意識させるものがあります。
像の台座も立派なものですが、そこに上田直次氏作のレリーフが3点埋め込まれています。「農村の児童」「荒海の漁師」「広島製砥所全景」。広島製砥所は亀田多吉氏が広島市南蟹屋町に設立した工場。安浦町町制施行50周年記念写真集「時模様」に写真も残っています。線路が見えることから、現在マツダスタジアムがある場所の近くだと思われます。
そして1945年8月6日を迎えます。広島に落とされた原爆は、広島製砥所も破壊しました。広島平和記念資料館(原爆資料館)が所蔵するデータを検索すると、その記録が残っていました。米軍の調査団が撮影した画像の中に1945年11月、の写真「243-H-1072 米国戦略爆撃調査団 広島製砥所の煙突群 11.22.45 南蟹屋町」、資料館の許諾を得て画像を送っていただき、ブログで紹介しました。レリーフと見比べると爆風による破壊のすさまじさを実感します。広島製砥石所は現在、広島市安佐北区亀山に移転し操業を続けています。
神社の境内に、堂々たる銅像がある。そのことから始まった探索は、80年前の激動の時を静かに伝え続けるモニュメントだったことが判明したのでした。
ブーブーBでした
by yasuurayumekobo
| 2025-04-03 00:00
| 安浦あんな所こんな場所
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